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あるのは主観だけという話(なのか?)

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どうも、ジョンです!

20数年の人生でも「あれは失敗だったな」と思える経験がいくつかあります。

もしあの日からやり直せるならと考えたことも少なくありません。

 

いつ評価する?

とはいえ世の中には一見失敗に見える経験でも長期的視点に立った場合、必要な経験であった、成功のもとであったという話も珍しくはないですよね。

そう考えた時に物事の経験が良いことだったのかそうでないのかという評価は、どの場面ですべきなのでしょうか。

 

まず人生の終了地点=死の瞬間ですね。この時に「良い人生だったな」と思えたら、すべてがいいことなのでしょうか。もし人生の8割の場面場面で嫌だと思うことがあったとしても、死ぬ瞬間に「良い人生だった」と思えたら良いのでしょうか。もしそうだとするなら死ぬ瞬間の価値というのはあまりにも高く見積もられているように思います。

仮に今の自分が未来の自分にとって小さいものだとしても、今の自分が今の自分にとって小さいものだとは言えません。そして未来の自分が今の自分よりも大きく評価される理由もないはずです。

が、同様の理由で今の自分を過大に評価することもまた筋が通りません。もしこれが正当化されるなら、短期的快楽を求めることが正当化されるも同義だからです。

 

全ての事柄に対して下す評価は、今の自分が今の環境で下す評価に過ぎないと言うことができるでしょう。それが死の瞬間であれなんであれ、どちらの評価が優れているとは言えないと思えます。

しかしあえてどちらを重視すべきかと言われれば、より新しい評価ではないでしょうか。なぜならそれは過去の評価を下した後にくだされる再評価だからです。今の自分は未来の自分の評価を踏まえることができませんが、過去の評価を踏まえることはできます。が、そうはいっても主観的に判断する時直近の出来事に影響されてしまうものですし、必ずしも新しい方が上だと言えるほどのことではないですね。

 

他人のアドバイスは正解じゃない

なんでこんなことを言うのかと言えば、最近アドバイスめいたものを拝見したり、実際自分が言われたりする経験が多いことが遠因でしょう。

他人からのアドバイスが役立つかどうかは結局のところ、不明です。例えば仕事の方向性でアドバイスをもらってすぐに成績は上がったとしても、数年後逆にそれが枷となって後輩に追い抜かれることになったともなり得ます。

更にいえば、本当に親身になってくれてもその人のコーチングの資質があるとは言えません。なげやりに言った言葉が核心をつくこともあります。

アドバイザーは自分の経験(他人から見聞きしたことも自分が見聞きした経験に分類される)の範疇でしか言及できません。

前述のように評価するタイミングによってどうとでも言える話ですから、アドバイスの質の高低に影響はしないでしょう。

が、人は意識的あるいは無意識的に、この制約から抜け出せることはないと思います。大学に入って良かったかという問いには、勧めるか反対するかにしても僕は大学卒業生として主張せざるを得ません。

繰り返しになりますが、これはアドバイスが役立つかどうかには関係がない話です。

 

何を聞いてそれをどう判断するかは、受け手に委ねられるのであって、それを強制することがあってはいけないなと、ふと考えるのです。

 

では!