現代に通ずる教訓がある(寺田寅彦著「ジャーナリズム雑感」)
どうも、ジョンです!
一月ほど前に熱を出したばかりだと言うのに、また熱が出て寝込んでしまいました。もはや体が昼夜逆転生活についていけなくなっていて、年をとるとこういう具合に健康を意識するのかも知れません。
さて、今回読んだのは相も変わらず寺田寅彦から「ジャーナリズム雑感」です。
「ジャーナリズム雑感」概要
現代のジャーナリズムは結局やはり近代における印刷術ならびに交通機関の異常な発達の結果として生まれた特異な現象である。
ここでいうジャーナリズムとは新聞におけるジャーナリズムのことを指します。なぜならこの時代にはテレビ放送が始まっていないからです。
大量印刷、高速輸送が可能になったことによりジャーナリズムは誕生しました。2017年現在はインターネットが普及しているので、より一層ジャーナリズムが過激化していると考えていいでしょう。
真実を書けないジャーナリズム
ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義である。けさ起こった事件を昼過ぎまでにできるだけ正確に詳細に報告しようという注文もここから出て来る。この注文は本来はなはだしく無理な注文である。
出来る限り、早く、正しく、詳しく伝えようとしますが、一つの事件ですら長期の捜査が必要なので、神でもない限り不可能です。
しかしこの無理難題をどうにかするために、ジャーナリストは過去の出来事からつじつまを合わせて、それっぽい話を作り出します。仮にこれが間違っていても、そうとわかるころには記者も読者も覚えていないという仕組みです。
“セザンヌにとって「リンゴを描く」とは、本当の「リンゴ」や本当の「私」にアクセスすること。そして知性では到達できない「本当の世界」、「神の領域」に触れることを意味する。”(出典:リンゴの正体 ~セザンヌ主義~ - ART+LOGIC=TRAVEL [旅を考えるweb])
もしかしたらジャーナリストは色んな出来事を書くことで、本質を見抜こうとしているのかもしれないという可能性を提示した寺田寅彦はこう言います。
新聞記者が新聞紙上に日々の出来事を記載するにこの意図があるかどうかは明らかでないが、もしそういう意図があってそうしてそれを実行し成就しようとするならば新聞記者というものは、セザンヌやまたすべての科学者を優に凌駕すべき鋭利の観察と分析の能力を具備していなければならないことと思われるのである。新聞記者になるのもなかなかたいへんなことである。
おそらく皮肉であると思われますが、これを真剣に言っている可能性があるのも寺田寅彦のおそろしいところです。
雑な報道に気をつけろ
記者が専門的な素養を身に着けていない限り、どんなに頑張ってもそれは滑稽なものになります。
寺田寅彦が見た例の1つが「重い水」と書かれた科学記事。一見何のことかと首を傾げますが、実際は重水素を含む水である重水のことで英語のHeavy Waterを直訳したのだろうということでした。他にもとうの昔に発見されていることが、歴史的大発見として掲載されたりして、どうにもいい加減な記事が科学記事には大量にあるということです。
われわれ読者は、同じような歪曲が政治外交経済あらゆる方面の記事にも多少ちがった程度で現われているであろうと想像しないわけには行かないのである。
自分の明るい分野であれば、変な記事はすぐにそうとわかるのですが、逆に疎い分野になるとこういった間違いに気付かぬままになってしまうのです。また読者や視聴者は専門家よりも非専門家の方が圧倒的に多いので、あまり問題視されぬまま放置されているのではないでしょうか。
新聞に古典を載せる?
毎日同じような記事ばかり溢れるメディア。寺田寅彦はこう言います。
きのうのうそはきょうはもう死んで腐っている。それよりは百年前の真のほうがいつも新しく生きて動いているのである。
本当かどうかもわからず代わり映えのしない記事よりも、古典の方がいつも新しい発見を読者に与えてくれる。たしかにそうかもしれません。
根本がわかっていれば枝葉も自ずとわかると説いたのはやはり寺田寅彦ですが*1、長年残っている古典的書物は根本であることが多い。一方で新書は枝葉であることが多いですよね。新しい情報というのも確かに重要ですが、根本がわかっていなければそれもかえって邪魔になるのです。
感想
寺田寅彦はジャーナリズムを非難したいというよりは、なんだか珍妙な現象だなというスタンスで見ているように思います。快く思っていないのもたしかでしょうが。
現代の捏造で言うと、古舘伊知郎のけものフレンズに関する捏造が記憶にあたらしいですね。
これはいわゆるジャーナリズムではないにしろ、よく知りもしないことを「オタク嫌悪」の型にはめてつなげるとああいう風な話になるのでしょう。まさに「ジャーナリズム雑感」で読んだ話にシンクロするようです。
もしネットがなく、ミュージックステーションを見ていなかったらこのラジオを聞いていた人はまるっきり信じているはずです。
一方でこういう風に働くことがあるから、ネットを何かの検証機関であるかのように信じ、盲信する人がいますが、それも誤り。
結局ネットも同じように利用されることがありますし、ジャーナリズム現象がなぜ起きているのかを考えればむしろインターネットこそジャーナリズムが増長される場所なのです。
なにやら説教臭くなってしまいましたが、発信源はなんであろうと気をつけようね、ウソばっかりだよという話でした。それでは!