不運な人が幸運になるには?
どうも、ジョンです!
不運な人
去年TBSで放送されていた「掟上今日子の備忘録」というドラマの不幸な主人公、隠館厄介。彼はとにかく何をやっても災難に見舞われるという不幸体質の持ち主です。
そんな彼ほどではなくても「なんかついてないなー」って普段から感じる人いません?
それって勘違いなんです。
不運か幸運かっていうのはまず同じものに対する視点の違いです。
起こっていることをポジティブに受け止めるか、ネガティブに受け止めるか。
たとえばエジソンは失敗しても「うまく行かない方法を発見しただけだ」と考えていますね。彼にとっては失敗は不幸ではなく、発見という幸運なわけです。
さらに気付く力の高低でもあります。
ある実験では道にコインを落としておいてそこを被験者に歩かせます。自分のことをラッキーな人間だと思っている人は、そうでない人に比べてコインを発見する確率があがるのです。同じ道を歩いていても幸運な出来事に気付くアンテナがあるかないかが、その人の幸運度を決めていると言ってもいいでしょう。
運を向かせるには
前述の通りなら厄払いなんて意味がありません。しかし厄払いだとか神頼みなんかはちゃんと意味があります。信仰にも価値があるのです。
厄払いに行ったら「これで不幸なことは起きない」と信じますよね?
神頼みをしたら「神さまがついてるから大丈夫」と思いますよね?
思わないとしたら思ってください。
わかると思いますが、厄払いなどの行動で自分の物の見方が変わっています。
すると同じことが起こってもポジティブに見ることができるはず。
人間には認知的不協和を減らそうという心理があります。
認知的不協和とは例えば今まで信じてきたものが嘘だとわかったときの気持ちです。
2015年人類が滅ぶという予言を熱心に信じていたとしましょう。
もう2016年になりましたが全く滅びている様子はありません。
ここに認知的不協和が起こっています。
人間はこの状態でいることができないので、なんとか言い訳しようとするのです。
たとえば「神さまが行いを見て猶予をくださった」とか「我々の解釈が間違えていて、2017年に滅ぶ」とか。
厄払いに行って不運なことが起こったら、認知的不協和です。
「厄払いに行ったのに不運なわけがない。だからこれは良いことの前兆なんだ」となります。
まあ人によっては厄払いがダメだったから違う神社に行こうみたいな人も出てきますが。笑
結局は自分の視点、受け止め方にすぎません。
もし自分は不幸体質だと感じるなら、受け止め方を変える訓練を積むべきです。
ネガティブにとらえてしまったら、「いや、こうも考えられるぞ」とポジティブなことを思い浮かべるとか。
良かったことに注意を向けるために、毎日ラッキーだったことを寝る前に書き出すなんてのもありますね。
どうせ生きるならラッキーな方がいいはず。
運が向いてる人に自分を改造してみるのも面白いですよ!
おわり