人間的な、あまりにも人間的な
自分の同世代で教員になる人がある年齢になってくると、学校の先生もやはり人なんだなと感じる。しかし中学や高校に通っているときには「先生」はやはり特別な存在に感じていたし、仮に年齢が近い先生がいてもやはりその人は「先生」であった。だから時には理性的、倫理的行動をとらない先生を不満に思いもした。
それも仕方のないことだったのかもしれない。先生には当然、他の人と同じように歩んできた人生があり、人間関係があり、感情がある。しかし生徒という立場と接する時の彼らはやはり先生であろうとするのだ。もちろんその背景を生徒は理解しているけれど、実感としてあるわけではないように思う。
中学1年と3年のときに担任で、部活の顧問であった先生は印象深い。かなり若い先生で、とにかく本が好きな人だ。冗談を飛ばすがどこかぎこちない雰囲気がある。
中学に入学したばかりのクラスメイトたちは、その先生を面白がった。紹介してくれる本も面白い。別段好かれていたわけじゃないけど嫌われてもいなかった。
中3では一転、先生は嫌われた。しかし先生は相変わらず本好きで冗談はぎこちない。変わったのは生徒たちである。中学生はいわゆる思春期だし反抗期。色々未熟なのに本人たちは大人だと思っているような時期だ。先生はクラスとうまく行かず噂ではストレスで胃に穴が開いたらしい。
いまその先生は教職を離れて、実家の店を手伝っているらしい。結婚もしていて趣味にも熱心な様子がFacebookでわかる。そんな今になって自分たちがひどいことをしたものだと思える。いやまあ私は部活の主将として顧問である先生とはそこそこ仲良くしていたのだが。
どんなに立派に見える人や落ちぶれて見える人だって、突き詰めれば同じ人間である。色眼鏡で見てしまうことは誰にだってあるが、色眼鏡で見ているという事実を胸に留めておくことこそ重要だと言える。
今週のお題「思い出の先生」
※タイトルはニーチェの著作名