楽しむことが第一(木暮理太郎著「登山談義」)
引きこもり気質な自分でもたまの気分転換に散歩をします。長い間同じ場所に住んでいると散歩のルートもマンネリ化。今日は新しい道を開拓しようとGoogleMapsでつながってそうな道を歩いてきました。実際行ってみると結構な傾斜で、運動不足な身にはもはや登山です。
世の中にはそんな坂道どころか実際の登山を愛好する人も多いですね。その中でも有名な登山家、木暮理太郎著「登山談義」を読みました。
木暮理太郎 登山談義(青空文庫)
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著者とこの作品
木暮理太郎(こぐれ りたろう)[1873-1944]は日本の登山家として知られています。人文的山岳研究の先駆者でもあるようです。著者によると
(前略)登山の意義とか、山は如何に自分を影響しつつあるか、或はあったか、というような哲学的見地とでもいいますか、そういう思考上の方面から登山を観察して見ようとしたこともなければ、況して科学的研究などは、全く自分の柄にないことで、出来ないことには一切手を出さないことにしています。
ということで、とにかく山が好きなんだそう。しかしWikiによれば前述したように山岳研究の先駆者ですから、単に山に登っていた人というわけではありませんね。
「登山談義」は木暮氏の代表作「山の憶い出」に収められている作品です。「山の会」での講演の内容が著されています。
純粋に楽しむということ
高い所へ上る興味は子供の時の木上りにも見出されます。恐らくどなたも経験あることと思いますが、これは小さな冒険心と向上心との現れとでも申しましょうか、『日本風景論』にも「楼に上りて下瞰す、猶ほ且つ街上来往の人を藐視するの概あり」と、登山の快味を論ずる冒頭に書いてあります。
色々言っていますが、著者が根本的に登山を愛する理由はこれでしょう。すなわち、山を登ることで冒険心と向上心が満たされるからです。何をするにしてもやはり初心の楽しさが無いと続かないものですよね。
面白さが見えてくるまで
僕はいま23歳なのですが、同世代で企業に就職したもののすぐにやめてしまった話をききます。無職の身で彼らに意見するのも恥ずかしいのですが、つまらないという理由でやめたのならもったいないと感じずにはいられません。
古く山行を俱にした私の友人が終に山が好きになれなかったのは、確に山に登る労力がくだらぬものに思われた為に相違ありますまい。其労力に堪えて山の真味が解る迄に至らぬうちに、途中で挫折してしまったものとしか思われない。
著者は友人を登山に連れて行きますが、ほんの2,3人しかはまる人はいませんでした。やめた人は労力に見合わないと思っているのだろうとも書いています。
実は労力に見合わないと感じるのは登山家である著者も同様のことがあるそうです。しかしそれでも続けるのは楽しみ・面白みのある登山の記憶があるからだと。
思うのですが、すぐに仕事をやめてしまう人も登山に合わなかった人も、最初のハードルが高すぎたのではないかと思うのです。まずは楽しみを見つけることが先決で、成果を出すのはその後ではないかと無職ながらに考えるのです。