文章はとっちらかるもの(寺田寅彦著「数学と語学」)
どうも、ジョンです!
さっき読んでいた読書猿さんの寺田寅彦に知識を生み出す仕方を学ぶというエントリーが面白かったので、今日は青空文庫から、物理学者であり随筆家の寺田寅彦の「数学と語学」を読みました。
寺田寅彦とは?
1878年生まれのすでに述べたように物理学者かつ随筆家(俳人でもあった)でした。
夏目漱石とは1896年に高等学校で教師と生徒という立場で出会っていますが、最古参の弟子と言われる一方で、むしろ弟子というよりは友人であったともされています。
数学と語学は似ている?
寺田寅彦はまずとある入学試験における受験者の、数学の点数と語学の点数の相関を調べてみます。すると両者はだいたい相関していて、数学が高ければ語学も高く、逆も然り。これを単に「頭の良いやつはどちらも点数が高く、悪いやつはどっちもダメ」と決めつけず、数学と語学に共通因子があるのではという仮定から入ります。
この後「数学も一種の言語である」という話と「言語も数学のように前提を置いたり分析して組み立てたりしている」という話が続きます。
そういえば物理をやっている人は「数学は言語だ」とか「数学を使ったほうがわかりやすい」と言いたがる気がします。大学の一般教養で物理に触れたときも同じようなことを言われたような。
僕も高校のころは仮にも理系だったので、言わんとすることは非常にわかるのです。日本語にすると3行くらいかかる文章が、数式だとかなり短い式で終わったりして。
でも言語だというのなら、言語を習得していない人にはほとんど通じないということも念頭に置いておくべきではないでしょうか。ね?
文章がとっちらかるのは仕方ないのである
寺田寅彦はこう言っています。
あらゆる言語のうちで、数学の言語のように、一度つかまえた糸口をどこまでもどこまでも離さないで思考の筋道を続けうる言語はない。
逆に言えば数学以外の言語は、とっちらかるのです。
私が「数学と語学」という題でこの原稿を書き始めた時は、こういうむつかしい問題にかかり合う考えはなかった。(中略)それがやはりうさぎの足跡的に意外な方面を飛び歩いて結局こんなものが書き上がってしまった。 これはやはり人間、というよりむしろ私の言語の不完全のせいだとして読者の寛容を祈る事とする。
「こんなもの」にしてはかなり良いものが仕上がっているのが寺田寅彦クラスという気もしますが、僕レベルになってくると本当に「こんなもの」になってしまいます。それもこれも言語が不完全だからなのです。仕方ない仕方ない。
しかし言語が不完全だからこそ、色んな突飛な発想や斬新な事柄が生まれるので、これはこれで歓迎すべきことなのかもしれません。森見登美彦も「クロージングを見据えない」って言ってますしね(たぶん「美女と竹林」)。
それでは!