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言語は何と同じだと思いますか?(知里真志保著「アイヌ語のおもしろさ」)

今日にあっては英語を始めとした外国語を学ぶことも多い。言語を学ぶことは考え方を学ぶことと同じですから、そこが言語習得の難しさであり面白さでもあると言えます。いまだに僕は面白いという境地には至っていないのですが。

日本に存在する民族の一つにアイヌ民族があります。知里真志保著「アイヌ語のおもしろさ」はアイヌ語からアイヌ民族のものの捉え方を著した作品です。

 

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知里真志保 アイヌ語のおもしろさ(青空文庫)

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言語に存在する視点

例えば氷をアイヌ語では「ルプ」(ru-p)と言う。「とける・もの」ということである。日本語の「コオリ」という語は「氷るもの」という意味であったと思われるから、さし示す対象は同じでも、ことばの裏の考え方には根本的なくいちがいがある。

アイヌ民族の住む地域は寒いので氷が本来の姿、基準となっていることがわかります。この一つをとってみるだけでも、環境が違えば物事の捉え方はまったく違ってくるのだということがわかります。

なにかを話し合うときに前提を考えず、すぐ議論に入ることも少なくないのが現実です。ことネット社会では背景の違いを意識せずに正義を振りかざしてしまうことも、悲しいかなあります。今一度基本に立ち返って、人はそれぞれ違うのだと意識しておかなければいけませんね。

自然はすべて動物である

古くアイヌは、自分たちをとりまく森羅万象を、自分たちと同様の生き物と考えていた。例えば風であるが、それはわれわれにとってこそ単なる空気の動きにすぎないのであるが、彼らにとってはそれは一個のれっきといた[#「れっきといた」はママ]生き物であった。

 擬人化表現というのでしょうか。植物や非生物を人のように表す方法に少し似ています。しかし根本的に日本語ではあくまで自然は自然と捉えているものを、アイヌ語では動物であるように捉えているそうです。

作中の例として風・草木・川が動物的に捉えられていることが紹介されており、特に嵐はまるで動物の争いであるかのような表現になっているのは躍動感を感じます。

言葉はものの見方そのもの

このように、物の考え方に大きな食いちがいがあって、それがアイヌ語やアイヌ文学の理解をよほど困難にしているのであるが、皮肉なことには、われわれがこの言語を学ぶ意義と興味の一つは、また実にそこにあるのである。

言葉が違うというのはつまるところ考え方が違うということです。グローバリゼーションの渦中では英語を操ることがほぼ必須となってきましたが、自身の操る言葉を疎かにしてはいけないでしょう。それは考え方を一つ捨てるということですから。

今でも世界で絶滅の危機に瀕する言語がいくつもあります。それらが失われるということは、世界から一つの視点が消えるということと考えればいかに恐ろしいことで残念なことか感じることができます。