謹賀新年だから正月とかお年玉とかの話
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
昨年はよろしくしなかったかたも、よろしく出来たらいいのではないでしょうか。
さて、2015年だ。年を越したからといって、何かが変わったりはしない。
正月も単なる月始めだ。よってわざわざ何かをする必要もないとは思う。
しかし、文化や伝統は守られるべきという風潮の中、わざわざ抵抗する理由もない。
それに今年は学生で迎える最後の正月だ。臨時収入を見込める。
というわけで、この2日間は親戚の家におじゃましてきた。
“無い内定”のことで肩身の狭い思いをするのではないかと思ったが、
軽くいじられる程度ですんだ。軽傷だ。
それ以上にお年玉をもらえて当面の資金不足は解消されたし、
親戚の高校生がオタク化していたのでそれなりに話せたり、
人生の先輩からありがたいお話を頂戴できたので、
プラスマイナスで考えるならプラスだろう。
いままでお年玉を何に使ってきたかなと思う。
記憶が鮮明なのは、高校生の時分に買ったデスクトップPCだ。
初めて買った自分専用のPCで、かじりつくように使っていた記憶がある。
というか現役で、自室に鎮座している。
あれから約5年経ってもそれほど衰えず、動画再生マシーンと化している。
他にはもうほとんど思い出せない。
おそらくは、ゲームか何かに消えたのだろうと思う。
でもそのゲームもいまでは手元に残っていない。
一人暮らしを始めるまでは、お金も時間もありあまるほどあるような気がしていて、
それを贅沢に使っていたけれども、いまは思い出せない。
後に残るような使い方をしてこなかったということだ。大変無駄である。
もちろんそういう使い方がまったく悪いと思っているわけでもない。
時間をお金を尽きることのないと思って生きて、何かに使ったことは、
きっと何らかの糧になっているのだろうと信じたい。
だからこそ、これからのお金は─特に今日頂いたお年玉は─自分の血肉にしなければならないのだ。
とはいいつつ、手元に現金があると欲しいものがあれやこれやと浮かんできて、
消えるのならいいけど留まり続けるのだ。Amazonの欲しいものリストに。
Kindle Voyageとか欲しいよね。
それにしてもお年玉とは子どもにとってはありがたい慣習だが、
あげる大人にとっては面白く無いだろう。
なにせ1年に1回程度しか顔を見せないガキのために、数万から十数万が消えるのだから。
それでも自分に息子・娘がいれば、返ってくる分もあるが……
あげなかったり下手に金額が少なければ、裏で何を言われてるかわからない。
親戚づきあいとは、大変面倒なものだ。
大変に面倒ではあるが、就職できずに、
その役目をもしかしたら自分は負えないのではないかと思うと、少しさみしくもある。
そのためにというわけではないが、自分で自分を恥じぬような生き方はしたいと思う。