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自分は何処に居るか

一度はどこからが自分でどこまでが自分なんだと考えたことがあると思う。

それと似たような話だが、「自分は何処に存在しているのか」という疑問だ。
感覚的に私は、両目のやや内側と言った感じがする。
おそらくこれは脳の場所と合致するはずだ。
この場所から離れるほど「外」という印象を抱く。
つまり「自分=脳」である。
 
しかし脳全てが自分だとすると、脳を一部損傷した人は自分を失うのだろうか。
そうではないと考えられる。
とすると脳の内、ある特定の部分が自分たらしめているのか。
あるいは、脳全体の相互作用が自分というものを存在するかのように見せかけているのか。
存在するかのようにというのは語弊があるかもしれない。
例えばパラパラ漫画は個々を取り上げれば一つの絵だが、
連続してめくると一つの動きを見せるようなもの、と考えてもらえれば近いと思う。
 
特定の部分が自分たらしめている、とすると、
その部分を損傷すれば自分という存在は消滅、あるいは変化するはずだ。
しかし、「ここが人のいわゆる魂である」という話は聞いたことがない。
 
脳全体の相互作用が自分であるという場合、一部が傷ついたからといって、
全体が違うものであるというようには見えない。
もちろん変化はあるが、それが違うものであるという認識には至らないだろう。
 
ここまでは自分という存在を内から考えた場合だが、
外から見た場合はどうだろう。
 
例えばある人にいわゆる自我が存在しないとしても、
あらゆる反応に異常が認められなければ、それは「自我がある」と判断されるだろう。
つまり自我自身以外が、実際に自我があるかどうかを確かめることは不可能だ。
可能性として、自分以外の人間が空っぽの存在だとしても私にはそれがわからないし、
また仮にそうであった場合にも、反応が同じである以上、
自我の有無は大きな問題ではないと言える。
 
将来的に、あらゆる面で人間で同一の人工物ができたとして、
それに自我が無いと果たして誰が言えるだろうか。
そして今我々の誰が、果たして自我があると言えるのだろうか。
 
私たちは、あるかないかもわからない存在のために悩む必要があるのか。
人目を気にしていく必要があるのか。
 
残念ながらある。
なぜならすでに述べたように、その存在があろうとなかろうと反応は変わらない。
つまりある前提で振る舞わなければ、不利を強いられるだけであるからだ。
しかし、不必要に卑屈になったりする必要はないだろう。
その時は、「あるかないかもわからない存在のために悩む必要はない」と思えばいいはずだ。