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主観という個性

客観的なデータ・事実などがもてはやされる一方、
主観的なことはないがしろにされている。
いやむしろ、主観で語ると悪いというレッテルを貼られかねない。

たとえば私たちが何かについて語る時、
なぜそう感じたか、思ったか。その理由を求められる。
直感的にといえば、お前は小学生か?と言ったように馬鹿にされる。

何かを証明して見せる時や説得する時、私たちは非主観的な情報を求める。
そのような事については、他人も同様の感想を得られると認識できることが大事だからである。
もちろん完全な客観はありえないため、主観の寄り集まりになることは仕方がない。

ところで、こうした非主観的な見方に慣れてしまった私たちは、
いつしかありふれた物の見方が善であるかのように振舞っている。
料理やファッション、趣味や将来の夢でさえ。

自分が正しいと思うこと、素晴らしいと思うことが何なのか。
自身が想定しうる他者との相対的な比較としての価値ではなく、
自己の心から溢れる絶対的価値こそ、個性ではないのだろうか。

ここまで書いておきながらではあるものの、
主観というものも実はないのではないか?
つまり主観が他者の価値観と相互に影響しあうモノとするなら、
全ての主観がいずれ平準化されうるのではないだろうか。
科学技術の発展に伴い、私たちは世界中の人と思考を共有することができるようになった。
以前は各地域程度に収まっていた主観価値の平準化が、
今や世界規模で起こっているのではないだろうか。

この主観価値平準化の波に飲まれない「主観」を確立し、
その「個性」を得る、いや守ることが現代に生きる私たちに求められているのかもしれない。