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SF的能力のある祝詞(折口信夫著「神道に現れた民族論理」)

正月には初詣に行った人も少なくないでしょう。僕はそういう習慣がない……というか人混みが苦手なので行かなかったのですが、父親が厄除けのお守りを買ってきてくれたので、大丈夫なんだと思い込んでます。

神社は神道という宗教であると言われていますが、それに関連した作品を読みました。折口信夫著「神道に現れた民族論理」です。

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折口信夫 神道に現れた民族論理(青空文庫)

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折口学

民俗学者・国語学者である著者の折口信夫(おりくち しのぶ)[1887-1953]は、その研究が折口学と称されるほどの人。Wikiを見る限り多くの人に影響を与え、特に柳田國男氏との関係が深いとされています。

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こういった書籍が出版されるほどですから、相当な人物であることがわかります。

 

今回の作品は神道学者の考え方に問題があるとして、著者なりの神道解釈をしていきます。なので神道にある程度通じていないとわかりづらいかと存じます。僕も読んでいて理解できていないところがたぶんにあります。

 

祝詞の効力

さういふ風に、本来のみことを発した人と、此を唱へる者とが、一時的に同資格に置かれるといふ思想は、後になると、いつまでも、其資格が永続するといふ処まで発展して来た。 

 著者によると「みこともち」である天皇はこの思想によって神と同格になるそうです。僕は天皇思想に詳しくないのですが、神話的に神の子孫であると思っていたのですが、あくまで神の言葉を伝える人だからこそ、神であるということなんですね。

一たび其祝詞を唱へれば、其処が又直ちに、祝詞の発せられた時及び場処と、おなじ時・処となるとするのである。私は、かういふ風に解釈せねば、神道の上の信仰や、民間伝承の古風は訣らぬと思ふ。 

やまとという国名が広がったのも、同名の地名が多いのも、この考えに基づくと著者は言います。現代の私たちはある種の西洋的思考に影響されていますから、理解はできてもしっくりこないものもありますね。

 

神に祈るとは

やうに、下の者から上の者に、守護の魂を捧げると、其に対して、交換的に、上の人から下の者に魂を与へられる。神に祈ると、神の魂が分割されて、その祈願者にくつゝいて働きを起す。

現代に生きる僕たちは、あまり祈る文化がありません。それでも思い浮かべることはできます。とはいえ神に祈るというと、何かお願いをしているような気がします。

しかし神道において祈るとは魂の交換であって、一方的なお願いではないそうです。いまの僕たちの習慣一つとってみても、面白い由来があるものですね。