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粋を感覚じゃなく構造として理解する(九鬼周造著「『いき』の構造」)

リクエストをいただいたので読んだのですが、これは自分には到底太刀打ちできない作品だと感じたのは開いてすぐのことでした。それでも恐れながらこの記事を投稿することを、まずは許していただかなければならないのです。

読んだのは九鬼周造著「『いき』の構造」です。

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九鬼周造 「いき」の構造(青空文庫)

Amazon.co.jp: 「いき」の構造 eBook: 九鬼 周造: Kindleストア

 いきと言い訳

まずタイトルにある「いき」とは何を指すのか。恥ずかしながら僕は「息」と「域」しか思いつかずにいました。

大前提としてこの作品で語られる「いき」は、僕らが考える「」のことだと思ってもらえばまず間違いないでしょう。作中では「生き」とか「意気」にも触れるので「いき」とされていると捉えてください。

その体験としてとらえられる「いき」がどういう構造を持っているのかを明らかにしたのがこの作品です。

 

これを理解するのは相当骨が折れました。というか恥を忍んで白状すると、理解はできませんでした。

まず大きな問題として具体例が多く取り上げられているのですが、どれをとっても古すぎて、この作品発表当時にはそれこそほとんど常識に近いものであったとしても、僕からすればまったく未知なものです。具体例で理解を促す目的か意味を補完する目的か、いずれにしても具体例がまったく具体として浮かんでこないので、逆に混乱するばかりでした。

そしてこれは哲学書なので、その言葉の一つ一つが哲学的な解釈で読む必要があり素養がないと非常に難しいのです。

 

いきの構造

さて肝心の内容に触れましょう。

僕が思うにこの本で最も重要な部分は2章「『いき』の内包的構造」です。

「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。 

 ちなみに契機となっているのは、決してこの3つを合わせれば「いき」になると言っているわけではないからですね。

 

媚態」は聞き慣れない言葉です。著者の説明はこうなります。

媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。 

 さらに、

そうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であって、異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。 

のであって、

媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。

 ということです。

誤解を恐れずに言うなら片思いに似ているとも考えられます。2人が意識しあってるこの状態が媚態であって、付き合ったり結婚したりすると片思いが楽しかったみたいになる……という説明であってますか九鬼先生。雰囲気はそんな感じでしょう。

 

意気地」は武士道です。しかも現実的な武士道ではなくて、理想的な道徳としての武士道です。

媚態の状態は1つになろうとする力を持っていますが、これが意気地によって極限まで二元性を保つと解釈できます。そうなると媚態はさらに強くなって、究極まで接近し緊張することができるのです。

理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色である。 

 

そして「諦め」。

「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心である。 

 恬淡は「無欲であっさりしていること」。そう聞くと、諦めは媚態と合わないように感ぜられます。そこを著者はこう説明するのです。

媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。 

 媚態は1つになることが目的です。達せられると媚態ではありませんが。だから達せられることがないという意味で、媚態は目的を諦めねばならないということでしょう。

 

要するに、「いき」という存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによって、存在完成にまで限定されるのである。 

これが「いき」の構造です。

仏教ってどこに出たっけとお思いかもしれませんね。作中で「いき」は苦界にその起源を持つとされています。苦界は仏教用語で苦しみの多い人間界のことだそうです。

 

この次の章ではこれを踏まえた上で、上品や渋味などとはどう違うのかを解説しています。

4,5章での自然的表現及び芸術的表現は、客観的表現としての「いき」を見ていきます。たとえば視覚なら“全身において姿勢を軽く崩すことが「いき」の表現である”ということとか、旋律では理想の音階からちょっとずらして表現したりしているという指摘が行われます。姿勢を崩すのは異性へと向かう媚態の表現ですし、旋律では理想が一元性でずらすことによって媚態の二元性を表現するということになるなどという解説が、多岐にわたって行われています。

 

これらは「いき」の内包的構造を抑えておけば問題ないかなとも思えるので、今回は2章だけをあげたわけです。

 

いやまったく拙い要約で申し訳ありません。引用が多すぎて要約にもなってないともいえます。

 

少しでも理解の助けになれば幸いです。そしてぜひご自分で読まれることをおすすめします。「全然解釈が違ってるぞ!」と憤られる方がいらっしゃったら、ぜひご指摘ください。非常に助かります。

 

 

P.S.この記事よりも以下のリンク先の方がわかりやすいかもしれません。

689夜『「いき」の構造』九鬼周造|松岡正剛の千夜千冊